昭和40年11月16日 夜の御理解   ●


 久ぶりで、伊万里の竹内先生が三時頃だったでしょうか、見えられまして、いつも、(?)帰られますから、今日は、運転手さんも一緒に上に上がってもらって「今日は先生椛目にめずらしい御馳走があるから、お食事を頂いてお帰りなさい」というて、今日は沢山あの、牛肉のお供えを頂いておりましたですから、牛肉のあれをかこんで丁度、丁度あの(?)しよるところに、広滝さんの息子がやってきましたから、そほ人も交えてから、久ぶりで、まあ、スタミナをつけさせて頂いたような訳でございます。時にです、竹内先生があのこういう事を言われるのですね。「どうも、おー、椛目に参りますとあまりに進め方が上手なもんですから、どうしても大酒大食になります」とこういうわけ。大酒大食は神様は戒めておられます。大酒大食は絶食の元になるとこう仰る。ね、私があの申した事です。「そうですな竹内先生。大酒大食というのは絶食の元になる、それを大酒大食というのであって、ね、お神酒を頂いても、お神酒で頂けておる間は大酒ではない。いくら頂いても。いわゆる、酔狂が出るようになったら酒と仰るですから、まだ酔狂が出らんまではあの大酒じゃないですよ」ち。大食でも同じ事。ね、もういかん、もう見るとも嫌というようになった時が大食であってですね、まだ、後で果物が出りゃ果物でも食べれれるくらいに余裕があるならこれは大食じゃないですよというて、まあ、お話しした事ですけれどもね。皆さん大酒大食を慎まなければなりません。絶食の元になるとこう仰る。

 大阪の玉水の先、初代ですね、湯川先生が書いておられます、んーお書物の中に、ある教会の教会長先生の事を、某教師と書いてある。名前は書いてない。お道の教師をしておるものがこういう事を言う教師が先生がおりますと言うておられる。ある時にその先生が湯川先生に向かって、「湯川先生お宅は関心ですなあと、何十人の修行生があの、出来てもです、ようあれで、食生活があれで、支えられる事ですね。」私のあたりには一人修行生が出来ると、もうそれだけは、ころっと食べ物が減って困りますと言われた。ね、金光様の教師とあろうものが天地の大恩とこう説かせて頂かなければならない教師が、天地の大恩をわきまえないからそういう事になる。天地の親神様が働き私共は、ね、一人の修行生が増えたら、神様一人増えましたと、減ったら一人減りましたというてお届けするだけじゃと仰るそうです。ね。神様がチャンとその食べ物をそれに必要な物だけを、与えて下さるんだと確信しておられる。私もそれによく似た話をある先生から聞いた事があります。はあーあんたそうくさい、あそこへんは、あそこの教会はあんたもうほんな、女の先生一人じゃもん。なーにもいらんもんじゃけん、そりゃもう御広前も立派になるし、そりゃもう調度品なんでんあそこいきゃあ立派な事じゃ。
 たった一人じゃから(?)いらんからと。もううちあたりてんで、こがしこ人間がおるけんで、なかなか調度品一つも買えんと。やはり、生活は苦しいとこう言われる。おかしいではないですかちいう事ですよね。どうでしょうか、湯川先生のその事を聞いたらそげんです。十人おろうが二十人おろうが、ね、一人の所には一人、二十二人おるところには二十人、神様のおまかないを頂いておるんだと、神様の御まかないを頂いておるんだという、確信が出来たら、人の口が一人増え、2人えー増えた所でです、ね、けれども、力のないものがやっぱり、教会に修行生をおかなければ、ちょっと格好がつかん。から、無利して書生おくという事をするから足りんのじゃ。私はここんところと今日私が言う竹内先生に申し上げた、大酒大食とをです、皆さんがつなぎ合わせて考えて頂きたいとこう思う。

 ね。日頃絶食になるような、これは、食べ物だけの事ではありません、ような頂き方をしておるから、神様がちょっと甘やかして、なら、こりゃ教会事でも申しますならです、ね、ちょっとんなら、お金が少し入ったちいうたらもう、奥さんの気分がようなった。もう、娘さんにゃ衣装をつくんなさったというようなです、それをもって私は大酒大食だとこう思う。だから次にはどっこい、必要なものを買わなければいかん時でも、もう絶食の元になっておるわけなんです。ね。お道の金光様のご信心をさせて頂くならばです、そういう所にしっかり、信心の目指しというものをおいて、私共がですね大酒大食のような、生活をしておりゃせんだろうかと。ね、自分を捨てなければいけん。自分の力を知らなければいけん。それを私は範囲でおかげを頂いていってです、成り行きの中に自然の中に一人の口が増える2人の口が増えるという事はです、それなりに神様が、御まかないを下さるはずなのです。それを、見栄や格好で、その修行生を入れようとするからその分だけは、(?)足らんごとなるというような事になりかねないのです。ね。どうぞ、おかげを確かに無尽蔵です。限りがありません。ね、その無尽蔵の私は、あー、おかげの扉というものをです、ね、開かせて頂けれる処の信心を頂かなければいけません。

 ●もう15年、16年にもなりましょうか。私お知らせ頂きましたお知らせの中に、ね、本気で信心を頂いて本気で信心によって幸せになろうとこう願わせてもらう。おかげを頂きたいではない、信心を頂かにゃあいかん。信心を頂かなければ、信心を自分のものにしていかなければ、本当のおかげではないという事がだんだん分かってきて、信心を頂きたいとこう願わせて頂くようになると、神様が信心を教えてやろうという働きが始まる。ね。そこでまず、おかげのうけばである処の自分の心の中にある所のまだ、無駄になっておる粗末になっておる、荒地荒屋敷の開墾に神様はかかられる。ね。そこんところを、四神が三本鍬なら、んー教祖の神様は平鍬だと。いうような意味の事を頂いた事がある。ね、いわゆる四神様の御修行が始まるときつい。それは、いわゆる自分の心の中に荒地荒屋敷をです、三本鍬で一生懸命、耕されておる時であるから、なーんにもはえはせん。雑草を取り除いて、難い所をいわばうち耕せて頂いておる時代なのである。ね。ある程度のところがいわばこちらのお願い、願い所がです、一反なら一反、二反なら二反の願いがです、ね、そこに、んー打ち耕された時にです、教祖の神様の働きが頂け、だんだん緩やかになってくる。平鍬でこう、なりをあわせる。

 そこへ信心の喜び、種がどっと蒔かれる。ね。そこに、天地のお恵みが、ね、天地のご陽気と天地の湿気というものがそこに加わって初めて芽を散る。花を咲かせる、実が実るというおかげになるのだと、そういう一つの過程というものをです、ね、私共が辿らせていただかなければならん。ようやく、ようやく今、三本鍬で自分の心うち耕させて頂きよる、ところへ持ってきてから、ね、もうはよ実りたい、花を咲かせたい、とそこに種を蒔いたって、芽がでるはずがない。自分でそりゃちょー信心をさせて頂いたら分かるのじゃ。ね。だから、現在耕させて頂いておる人、現在平鍬でなりを合わせておる人。今こそ、喜びの種をまかせて頂いておる人。そこに、ご陽光が、陽光が、ね、いわゆる天地のご陽気がです、光と温かみというものが注がれる。そこに大地の湿気というものが又それに添えられる。お湿りが頂ける。そっから、見事な発芽が芽が出るのである。それを大事にそっから、花が咲いて実が実ってというおかげになる。だから、いかに無尽蔵だというてもです、もうそれっきりでもう後に喜びの種を蒔かなかったら又それっきりであり、又、荒地荒屋敷になるのである。ここん所の修行が繰り返し繰り返しなされていって始めていわゆるこの大地の中からどうして、こういう、こんなに沢山のものが毎年毎年、一反の中からです、10表なら10表のものが出来る。毎年毎年こう大地から生まれてくるのである。いっぺん蒔いておけばよかちいう事はないでしょうが。時期がきたら又まかなきゃならん。ね。そういう繰り返しのおかげを頂かせて頂く事が有り難いのである。しかも、自分が頂いておるなら、一反なら、一反から、二反になるなら二反になるだけの、やはり、又信心修行がのぞまれる。一丁の田を望むならやっぱり一丁の田を望むだけの修行が必要である事は勿論の事。ね、そういう、自分というものを分からせて頂いて後です、今日私がいう、丁度それに適当な大酒大食にならない、おかげを頂かせてもろうて、いつもおいしい、ね。いつも、いうなら、飲むほどに酔うほどに有り難なる程度のもの。

 飲むほどに酔うほどに酔狂がでるような事になってこない、あなたのところはほんに不思議じゃ。「あれだけの修行生の方達がようあれでやっていかれなさいますねち、うちがたは一人の修行生が増えてもなかなか大変ですのに」というてその、言われた先生をです、湯川先生が笑われたという、おかしいというて自分で書いておられる。ね、そんな事があろうはずがない。神様の大恩を知らんから、そういう事になってくる。ね。それの内容としてただ今私が申しましたようなです、信心が繰り返されていくそういう、例えばはあー、あの時代が耕す時代であった、あの時分が種を蒔く時代であったろうろうと、そういう自分の信心を例えば、振り返ってみてです、今こそ私は、三本鍬で耕されておる時であろうというのにですよ、もう花を求めるような信心をしたんじゃ、おかげになりません。そういう事で例えば花を与えられてもです、ね、いわゆる、無尽蔵に限りなく次から次にこう頂けれるおかげ、ね、いわゆる、神様三人になりました、五人になりました、お届けしただけでそれだけのおまかないが頂けれるようなおかげにはなってこないと思うですね。                                      どうぞ